2012年5月31日木曜日

お前がエロに費やしてきた時間を勉強に当てていれば今ごろ世界を救えていたかもしれない

男がパソコンに詳しくなる過程は絶対にエロサイト巡回が深く関わってると思うっていうか恐らくほとんどの野郎には当てはまるはず


これは100人男がいたら102,3人はそうだと言い切りたいくらい自明である。


僕が思春期まっしぐらだった中高時代、エロサイトは不便極まりなく、また地雷を踏むリスクも相当に高いまさに戦場だった。


リンクを何十と辿らないと目的の動画に行けない、なんてことは当たり前すぎてもはや前提となっていたし、更にその動画は存在しないなんてことも多くあった。


10分以上リンクだけを辿り、挙句そんな動画は存在しなかった時の僕の失意の顔はさぞ母性本能をくすぐったことだろうと思う。


友達の中には目標物にたどり着くのが異常に早い奴もいたりして、そういう奴は「神の手」として皆の尊敬を一身に集めた。


とまぁしかしまったく多くの時間をこういった無駄な所業に費やしたわけだけれども、世の男というのはその凄絶な経験を通じ、いつのまにかそこそこパソコンを使えるようになっているものなのだ。


したがって、女性に比べて男性の方がパソコンを使える人が比較的多いのは、性欲の一つの到達点だと思える。


ブルーレイとHD DVDの激しい規格争いの軍配がブルーレイに上がったのは、エロコンテンツの豊富さだったということからも、このパワーは馬鹿にできないのである。


しかし今、ある変化が確実に起きている。


エロサイトの構造改革だ。


非常にわかりやすいサイトが増えているのだ。


直リンクで動画にいける。


これなら迷うこともない。


エロを満たすために使う時間は、大幅に短縮された。


無駄の削減を徹底する合理主義はエロサイト業界にも及び、ユーザー目線の素晴らしいサイトが多く誕生したのである。


しかし、無駄は本当に無駄なのか。


少なくとも、思春期の僕が過ごした無駄だと思っていたあの時間は、そこそこパソコンを使えるという結果を導いている。


何が無駄で、何が無駄でないか現時点で判断するのは不可能だ。


元ボクサーの徳山昌守は、無駄なパンチは打たず、少ないがタイミング抜群の左ジャブとカウンターで世界の頂点に立った。


しかし彼は初めから無駄のないスタイルだったわけではなく、昔は手数を多く出すボクサーだったという。


無駄なパンチも数多く打っていたろうが、その経験故に必要なパンチと不要なパンチを知り、往年のスタイルを手に入れられたのだろう。


無駄は無駄とは限らないのだ。


徳山さんも僕のエロサイト巡回と同じにされたらスタイル無視で僕をボコボコにしにくるだろうが、意味することは大体一緒だ。と言いたい。


ジョブズも、どの点とどの点がつながるなんて、今の時点では分からないと言っていた。


ひょっとしたらエロサイト巡回が人類史に残るような何かにつながる可能性もなくはない。


なんて妄想を働かせながら、今夜も男たちは分かりやすいエロサイトを崇め奉る。


ばいばーい。

2012年5月1日火曜日

ダンゴムシの求愛ダンス


今日は草刈り(民代ではない)をした。

鎌を持って草を刈っていると、虫たちがうじゃうじゃ出てくるので、彼らからすれば住処を荒らす傍若無人な侵略者だったに違いない。

そうなるとなけなしのS心がくすぐられて、「男は皆殺しにしてやる。女はかわいがってやるから覚悟しときな」などと言いながら草刈り(正雄でもない)をしていたのだけど、そうなるとダンゴムシのメスとラブシーンを演じなければいけないなぁ、それはいやだなぁと一人で盛り上がっていた。

ミミズとかダンゴムシとかベンジョムシ(まるまらないダンゴムシ。故に存在意義が謎)がそれはそれはいっぱい出てきて、ちょっと気持ち悪かった。

まぁでも気持ち悪いと思いながらもそんなに気になるレベルではなくて、僕は虫って人並みに嫌いだけど逃げ出してしまうほどではないのだ。

でもカナブンとかは無理。あいつがひっくり返ってしまってホームポジションに戻ろうと必死にもがく様は正視に耐えない。
蜘蛛とかも無理。足多すぎる。そんなに足いる?俺2本で満足ですけど?

ただ、カナブンとか蜘蛛とかであれば、かわいい女の子が涙目で「おねがい、やっつけて」とか言ってこようものなら勇敢に立ち向かうことができる程度の苦手度合いなのである。

こう書いていて思うのは、男って「男のくせに虫が怖いとかウケる。きもいしくさい」みたいなところあるし、逆に女の子は「虫は嫌いであってよ」っていうところあるよね。期待みたいな。

いわゆるジェンダーってやつですかね。

最近こういうのが緩くなって、男が「スウィーツ(スイーツではない)ちょー好きー!甘いものは自分へのご褒美ー」などと宣うことにあんまり違和感がなくなってきた。

いやまぁ「違和感あるわ!きもいんじゃぼけ!」みたいな人もいるだろうけど、世間に許容されているというか、多分江戸時代とかに侍が「拙者はスウィーツ(スイーツではない)がいとあはれで候!」みたいに言ってたら、それでも侍の子ですか!とか言いながら母上に斬り殺されていたのではないかなと思う。

「私は侍である」っていう風に、期待されてる行動を取らなければならない「型」が生き方にあったってことですな。

今は逆に「個性が大事!」って言って「型」を敬遠する空気な気がする。

「型」の対義語が「個性」であるとでも言うように。

でも今って、個性個性とか言いながら、結局相手にどう見えるかみたいなインスタント個性だらけになっているような気がする。

今のところ自分の中でも曖昧なんですが、尊重すべき物として僕らが教えられてきた「個性」なんて概念は、たかだか性格が皆違うんですよーって話であって、個性ってもっと違うものなんじゃないかなって思います。

性格なんて、どんなに特殊に見えようが、それって多分他の人が代替可能じゃない。きっと。

じゃあ「個性」ってなんだよって言われると、「侍らしさ」とか、そういう型にはまってなお残るものが個性なんじゃないかなと思う。

今だったら「社会人らしく」とかよく言われることだけど、それにはまった上でなお残るものが。

まぁ自分でもまだよくわからん。

でもとりあえず、急場の自己分析とか他己分析とか、考えて見えるような代物ではないんじゃないのかなって感覚は持ってます。

「個性をいかして」って困るわー。

今日はこんなもん。ばいばーい。

【珈琲散歩】香味喫茶ハライソ珈琲(尾道)外怪しげ・中素敵なやんちゃカフェ!

向島の「珈琲豆ましろ」を出たあとに特にやることもなかったので、前からその独特の存在感が気になっていたカフェ「香味喫茶ハライソ珈琲」に入ってみることに。1人だと気兼ねなく冒険できるのが良いよね。 尾道商店街の入口にお店がある。写真じゃわかんないと思うけど 、ドア開...